住吉神社  

古堤街道沿いに立地し、上・下田原の分村(慶安4年・1651)以前に磐船神社から分祀されたもので、祭神は底筒男命(そこつつおのみこと)、表筒男命(うわつつおのみこと)、中筒男命(なかつつおのみこと)、神功皇后の四座で、国家鎮護の神、航海安全の神、和歌の神として上・下田原の尊崇を集めている。敷地内には多くの文化財があり、鎌倉期の石風呂、元和8年(1622)の十三仏、永禄8年(1565)の名号板碑などがある。正面の門柱碑を進むと、北河内界隈では珍しい朱塗り木造両部鳥居(高さ約4メートル、柱の周り1.2メートル、4本の控え柱は16センチ角)があり、境内に通じ中央には北河内に唯一の神楽舞台(4メートル四方)がある。

 神社にもかかわらずなぜ多くの仏様などが祭られているかというと、明治期までは神仏は習合していたもので、住吉神社にも神社付属の宮寺・神宮寺があり、その僧職が神官をも兼任していた。



郷土史かるたより

(れい)こもる 住吉(すみよし)神社(じんじゃ)に (いし)風呂(ふろ)

 住吉神社は、磐船神社から分祀されたと伝えられ、創建は江戸初期であろうといわれている。祭神は住吉四神、海の神である。境内にある石の風呂は、天野川から出土し、縦2メートル、幅1メートルの花崗岩で作られ、深さ80センチにくり抜かれている。鎌倉時代のもので、四天王寺にあるものと同型であるといわれている。浄身用として身の潔斎(けっさい→神仏につかえる前に身を清めること。)に使われていたようである。府の有形文化財考古資料に指定されている。水吐けの穴については古老の話によると、大正時代に村人達が開けたということである。




郷土史かるたより

追善(ついぜん)供養(くよう) 生前(せいぜん)(いの)る 二基(にき)十三仏(じゅうさんぶつ

「つ」のカルタは、住吉神社にある十三仏(元和8年・1622)と照涌墓地にある十三仏(永禄2年・1559)の2枚ある。人間が死んで、あの世へ往生するまでに33年かかるそうである。そのために亡くなった人の供養をする。初七日(しょなぬか)、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、七七日(なななぬか・49日)、百か日、一周忌、三年忌、七年忌、十三年忌、三十三年忌の13回の追善法要(ついぜんほうよう)である。十三仏は、四條畷に7基もある。自治体では日本一多い。その2基が田原にある。


郷土史かるたより

 

累年(るいねん)の 地車(だんじり)(まつ)り なお(つづ)

 秋祭りには、鉦(かね)太鼓を鳴り響かせながら地車(だんじり)が村中を練り歩く。地車とは、木車の上に神座を乗せたもので、若者が担ぎ、子ども等が引いて氏子地を廻る。氏子は五穀豊穣(ごこくほうじょう)・村内安全を感謝する。地車は、明治年間(1760年代)よりでき始めたらしく、市内に11台ほどある。田原には住吉神社にある。



郷土史かるたより

豊作(ほうさく)の 感謝(かんしゃ)(いわ)う 秋祭(あきまつ)

 初物を神に献ずる秋祭りは、収穫前に行われる。田原は江戸期以来旧暦の916日を、明治22年になって1016日に改められた。住吉神社の、この祭りの前日15日が宵宮、当日が本宮で、宵宮といっても一日は夜に始まって翌日の日暮れまでを指したものであるから、宵宮は本宮の始まりとなる。だから、15日の夜が山場である。最近、田原でも住吉神社の秋祭りが、地車を出すのに人手がいるので土、日曜日になったりしている。また、農作業をする人も少なくなり、本来の豊作の感謝と村人の繁栄の祭りとは違ってきている。神との結び付きより、人々との交流の場となってきている。


郷土史かるたより

年老としおいて ろく名号めいごうに 心寄こころよ

 六字名号(ろくじみょうごう)とは「南無阿弥陀仏」の六字を言う。正伝寺、住吉神社の境内で、この六字の書いた石碑を見る。「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」とは、阿弥陀仏に帰依(きえ→仏を信じ、その力にすがること)する意味である。善導(ぜんどう→唐の僧)はこれを称念(しょうねん→南無阿弥陀仏と唱えること)すれば必ず往生(おうじょう→極楽浄土に)することをいい、浄土真宗では、南無は「たのむ」、阿弥陀仏は「たのむ者をたすける」と解釈している。これを唱えるのを念仏という。四條畷では、中野の正法寺に江戸期以前の六字名号碑(天文5年・1536)としては大阪でも一番古いものではないかと云われる立派なものがある。(高さ150センチ、幅90センチ、厚さ15センチ、板状型 金石文字 大阪随一)


郷土史かるたより

()をとって 子宝(こだから)ねがう 子安(こやす)観音(かんのん)

 子安観音は住吉神社の地車倉庫の前にある。子安は安産の意味である。昔は医療技術や設備が未発達であったので、無事赤ちゃんが生まれ、健やかに育つということはなかなか困難なことであった。観音さんのご利益(りやく)を頂きたいと、手をあわす人々の思いが伝わってくる。自分ではどうしようもできないとき、神や仏に手をあわす人間の生き方がこうして生まれてきたのであろう。